チョコレートの魔法 菊丸×リョーマバレンタインデー。お菓子屋の陰謀だと頭では分かっていても、年頃の人間には気になる日である。 青学メンバーとて、それは例外ではなかった。 バレンタインデーを明日に控えた日、テニス部部室ではその話題で持ちきりになっていた。 練習を終えた桃城は、スポーツドリンクのペットボトルをぐい飲みしながら言った。 「やっぱり一番人気は手塚部長ッスかね?」 「いや~、俺は不二もあなどれないと思うぞ。去年はどうだったの、不二?」 河村の問いに、不二は笑顔で答える。 「それはご想像にお任せするよ。でもやっぱり、手塚よりは少ないんじゃないかな」 「実際のところどうなの、手塚?」 手塚は河村には答えずに、黙って制服に着替えていた。 「いいなあ、色男の余裕ってヤツですかねえ。俺なんか、一個でももらえればホワイトデーに思いっきりお返ししちゃうんだけどなあ」 頭の後ろで手を組んで、桃城はぼやいた。 ふと、すでに着替えを終えている菊丸とリョーマに気づいて水を向ける。 「越前は少なくとも二個は確実にもらえるよな。桜乃ちゃんと朋香ちゃんには。よっ、このモテ男くんが!」 「……興味ないッス」 リョーマは冷ややかに答えた。 「チェッ、つまんねえの。ねえ、英二先輩は? 去年どうだったンすか?」 「あ、俺?」 待ってましたとばかりに菊丸は胸を張った。 「それなりにもらったよ。でも、俺には好きな人がいますから、おつきあいはできませんってちゃんと返事したけど」 菊丸の答えに、部室にどよめきが起こった。 「英二、お前、うらやまし……じゃなかった、結構ムゴいことするんだなあ」 大石が目を丸くする。 「だって、はっきり言っておいてあげないと相手に悪いじゃん。こっちに本当に好きがいる場合はさ。そう思わない、おチビ?」 菊丸の思わせぶりなまなざしを、リョーマはあっさり無視した。その上、しれっと言う。 「もしかして、菊丸先輩のもらったチョコって全部義理チョコだったんじゃないッスか?」 「そ、そ、そんなことないもんっ!」 菊丸は真っ赤になって怒鳴った。その動揺ぶりはリョーマに図星を指されたことを周囲に物語っていた。 青学テニス部メンバーは笑いをかみ殺した。 「どうしてみんな笑うんだよっ!」 菊丸はムキになって叫んだ。 その時、菊丸の鼻孔は奇妙な匂いを感知した。 「ねえ、みんな。変な匂いしない?」 「おいおい英二。話をごまかそうたってそうはいかないぞ」 大石は笑ってそう言ったが、すぐに顔をしかめた。 「でも、言われてみれば……」 「本当ッスねえ。このドロ~っとした独特の匂い、どっかでかいだ覚えがあります」 桃城も鼻をひくつかせる。 「これはもしかして……」 河村が青ざめて言った。 「乾汁っ?」 全員の視線が、部室の片隅にしゃがみこんでいた乾に集中した。 乾はテニスウェアのままで、ロッカーから何かを取り出そうとしている。 「お、落ち着いてくれ、乾」 大石の声は震えていた。 「そうッスよ、今は練習中でもボーリング大会でもないッス。ペナル茶の出番じゃないですよ」 桃城は必死の形相で、説得にかかっている。 「そうだよ、乾。お母さんが泣いてるにゃ」 乾汁への恐怖のあまり、混乱状態におちいった菊丸は意味不明なことを口走っていた。 「これは、乾汁ではない」 乾はすっくと立ち上がって、手にしている包みをかかげた。 「乾特製、バレンタインチョコレートだ!」 一同の空気が凍り付いた。どういう味のチョコレートかは、想像がつく。 乾はとうとうと語り始めた。 「このチョコレートには、俺が調合した特製成分が含まれている。滋養強壮はもちろんのこと、惚れ薬の成分まで入っているのだ」 「あのさぁ、乾」 おずおずと菊丸はツッコミを入れた。 「その惚れ薬の成分って、何なの?」 「企業秘密だ」 乾は妖しく微笑んだ。その微笑みを見て、菊丸は一瞬でもそのチョコレートが欲しいと思った自分を悔やんだ。 「今なら、特別価格五百円でどうだ、みんな?」 いらない。 誰しもが、そう思った。 その時、手塚が冷静に指摘した。 「乾。バレンタインデーチョコレートとは、普通、女性が男性に送るものだろう? こんなところで、男の俺たちにセールスしていても仕方がないのではないか?」 「そう言われてみればそうだな」 乾は素直に納得し、一同は胸をなで下ろした。 それ以後、インターネット通販とフリーマーケットを主体とした乾のチョコレート販売は始まったのである。 「乾先輩、そのチョコひとつ、俺に売ってくれませんか?」 リョーマがそう声をかけると、がっくりと肩を落としていた乾は飛び上がらんばかりに喜んだ。 「ほ、本当か、越前」 「はい」 リョーマは苦笑まじりにうなずいた。 バレンタインデー前日になっても、乾チョコは売れなかった。いや、一つだけは売れたらしい。 ”ちょっとした有名人が買ってくれたんだよ。誰が買ったかは教えてやれないが” そんなことは誰も聞いていないのに、乾は妙に嬉しそうに言っていた。その誰かのもらったチョコレートを食べた人間は食中毒間違いなしだとリョーマは思う。 乾チョコの在庫は大量に余っていた。リョーマの申し出が、乾には嬉しいわけである。 「値段まけといてもらえます?」 「いいだろう。三百円だ」 「百円じゃないとヤダ」 「……百五十円」 「ま、いっか。ボランティアだと思うことにするから」 リョーマは乾の手のひらにじゃらっと硬貨を渡した。 「せこいな、お前」 「嫌だったら、べつに買わなくてもいいンスけど?」 あっさりと言うリョーマに、乾はいつの日か特製デラックス乾汁をリョーマのためだけに作ろうと心に誓った。 「ところでそのチョコ、誰にやるんだ?」 ふと思い当たって、乾は尋ねた。リョーマはいたずらっぽく笑った。 「うるさい猫に、ですよ」 「おチビ~、今日はなんの日かなあ?」 菊丸の自室。 リョーマに、菊丸はわざとらしいさりげなさを装って尋ねていた。 「バレンタインデーでしょ」 「おお、大正解だにゃ。おチビはまさか俺にチョコレートくれたりなんかしないよねえ」 菊丸は芝居がかかった仕草で落ち込んで見せた。このまましつこく拗ねて、リョーマを辟易させた末にエッチに持ち込むつもりだった。 本当はチョコレートが欲しいのだが、リョーマにそんなものを期待しても無駄だということは長いつきあいでわかっているのである。 だが、今日のリョーマは違った。 「はい、先輩。チョコレート」 リョーマは満面の笑みを浮かべながら、菊丸に綺麗にラッピングされた包みを差し出した。 その笑顔がなんとなく人が悪いような気もするが、リョーマの人相が悪いのは今に始まったことではないので、菊丸は喜び勇んでチョコレートを受け取った。 「ありがと、おチビっ! ホワイトデーのお返しは何がいい?」 「そんなことはまだいいッスから、食べてみてくださいよ」 「うん。よろこんで!」 菊丸ははやる手つきで、ラッピングをほどき箱の中身を開けた。いびつだが、甘い匂いのするハート型のチョコレートが入っていた。 「おチビ、これ手作り?」 「ええ、まあ……」 リョーマは菊丸から目をそらせて答えた。きっと照れているのだろう。可愛いやつめ。菊丸は涙が出そうになった。 「じゃ、まず作ったおチビから食べてみて!」 菊丸は勢いよく、リョーマの口にチョコレートをほおりこんだ。 ごくり、とリョーマはそれを飲み込んだ。 見る見るうちにリョーマの顔が赤くなっていく。 「どうしたにゃ、おチビ? どっか具合悪いの?」 菊丸は不思議に思いながら、自分もチョコレートを食べてみた。 おいしい。なにか変わった材料でも入っているのだろうか。ちょっとアクがあるが、普通にうまいチョコレートだ。 それなのに、どうしてリョーマは、今こうして荒い呼吸をしているのだろうか。 数分後。 菊丸にも、その意味がわかった。 ベッドのスプリングが、派手なきしみを立てていた。 「おチビ……おチビって、ものすごくエッチな子だったんだね」 菊丸の上で、リョーマは思う様、腰を使っていた。強烈な締め付けが菊丸に伝わる。すでに二回は果てているというのに、二人の熱はまだまだ収まりそうにない。 「菊丸先輩だって、こんなにおっきくなって……自分だってやらしいじゃないッスか」 荒い呼吸の中、リョーマは言った。憎まれ口をたたいていても、体はしっかりと官能をむさぼっている。 「このォ、生意気言っちゃって!」 菊丸はリョーマの細い腰をつかんで、左右に振った。 「んあっ!」 リョーマがうめいた。 「おチビのスケベ!」 「……」 リョーマは目に涙をためたまま、菊丸のされるがままになっている。 「かーわいい」 菊丸はクスっと笑った。 「気持ち良くって、もうしゃべれないんだね」 「そんなこと……あっ!」 菊丸に乳首をつままれて、リョーマは甘い悲鳴をあげる。そのままリョーマはがっくりと菊丸の上に倒れこんだ。 「ねえ、もっと動いて俺を気持ちよくしてよ」 リョーマの頭を撫でながら、意地悪く菊丸はささやいた。吐息が耳に触れるのか、リョーマはビクッと体を痙攣させる。そのたびに菊丸は締め付けられた。 「ねえ、早く……」 菊丸はそこで気づいた。 「おチビ、ひょっとして気持ち良くなりすぎて、自分じゃもう動けないの?」 「そ、そんなこと……」 口ではあらがっていたものの、リョーマの体はぐったりとしていた。 「もう、素直じゃないんだから」 菊丸はたっぷりの愛おしさを込めて、リョーマにくちづけた。 キスは、チョコレートより甘い味がする。 光る唾液の糸を引いて、二人の唇は離れた。 リョーマは小さく身もだえながら、小さく目を開けている。かすれた声でリョーマはつぶやいた。 「ねえ、先輩……」 「何?」 「あのさ……」 「だから何なんだよ?」 「……意地悪」 「何のことかな?」 菊丸は笑いながら、身を起こしてリョーマの体を組み敷いた。 「こうしたかったんでしょ?」 「……全然」 言葉とはうらはらに、リョーマの両手はしっかりと菊丸の背中に回されていた。 ようやく炎が静まったころ。 日はすでにとっぷりと暮れていた。 菊丸は幸せいっぱいで腹這いになって、隣で横になっているリョーマの髪を指で梳いていた。 「ねえ、おチビ?」 「……ん」 目を閉じたまま、リョーマは答える。 「どうして今日は、あんなにやる気だったの?」 「先輩こそ……」 二人は照れ笑いしあった。 「何回したっけ、俺たち」 「……下品ですよ、先輩」 「こんなに元気になったの初めてだよねえ? ものすごく気持ちよかったし。なにかあったっけ、今日」 二人はそこで、顔を見合わせて同時に言った。 「もしかして、あのチョコレート?」 後日。 「乾、あのチョコレート、何が入ってたの?」 「教えてくださいよ、乾先輩!」 青学テニス部コートで、菊丸とリョーマは乾に問いつめていた。 菊丸は、後からリョーマに、リョーマが乾特製チョコレートに香料をたっぷり混ぜて湯煎で溶かして新しいチョコレートを作ったことを聞いた。これらの作業はすべて奈々子がやったそうである。 自分に乾チョコを食べさせたリョーマに腹が立たないわけでもないが、あんなに愉しんだのだからそれはもういいとしよう。 乾はいつものように、乾メモに何事か書いている。 「どうしてそんなことを知りたがる?」 リョーマと菊丸は真っ赤になって、でへへと笑った。 「だって……ねえ、おチビ」 「いや、ビジネスチャンスになるなあと思って」 乾は怪訝そうに眼鏡の縁を上げた。 そこに、青学のものではない制服を着た背の高い少年がやってきた。 「こんにちは、乾さん!」 氷帝学園の鳳長太郎だった。 長太郎は柔和な顔を、喜びで輝かせていた。乾の手を握って、ぶんぶんと振る。 「ありがとう、乾さん! あのチョコレート、効きましたよ! あの人が、あの意地っ張りで頑なな宍戸先輩があんなふうになるなんて……」 「あんなふうって?」 乾のツッコミに、長太郎はようやく我に返ったようだった。真っ赤になってちぢこまる長太郎に、菊丸とリョーマは自分たちのことは棚の上にあげて、「汚れてる……」とつぶやいた。 「ところで乾さん、あのチョコレート……」 「ああ、あれな」 長太郎に乾はつまらなさそうに答えた。菊丸とリョーマは身を乗り出して、乾の言葉の続きを待った。 「全部処分した。二個しか売れなかったし」 「ええーっ?」 三人は無念の声を上げた。 菊丸が食い下がる。 「ね、ねえ乾。せめてレシピくらい」 「忘れた。乾汁の材料はいつもひらめきで作っているから……」 こうして、魔法のチョコレートはこの世から消えてなくなったのであった。 END |